2016年07月06日

稲田朋美氏が「生き方の根本においてきた」という生長の家創始者・谷口雅春氏の教え

【生長の家創始者・谷口雅春氏の教え】 
稲田朋美「私は、谷口雅春先生の教えをずっと自分の生き方の根本において参りました」
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稲田朋美氏が「生き方の根本においてきた」という谷口雅春氏の教えを、見てみよう。

(1) 国家は吾々の最高理念である。数字に先立って『数』が存在するがごとく、理念はすべての形あるものに先行して存在する最高の存在であり、生命(いのち)の生命である。国家はその理念のうちの最高なるものである。個生命はこの最高理念のために、『生命の生命』のために、一切をなげうって奉仕しなければならぬ。否、奉仕することそのことが喜びであり、それが個生命なる小さな理念的存在が最高の理念にまで包摂せられ向上し行く最後唯一の道である。銃後の親戚知友に送られて征途に旅立つ軍人の歓呼こそは、見送る人も、見送られる人も、それは個生命が最高の理念に包摂し向上する刹那の生命の凱歌であり、鬨(とき)の声である。

(谷口雅春『明窓浄机』草創篇284-285頁「昭和12年 天皇は中心理念に在す」)

(2)戦争の倫理的意義 谷口雅春

 私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられた場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければならないのである。今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争というものは魂の修養にならないというような価値判断がはたらいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれがあるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練るところの公案となるのである。多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈でなしに実証するところの行事である。かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したところの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。『爆弾を抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、その命令者が教祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。

(『谷口雅春選集』谷口雅春著 潮文閣、1941年、302-303頁)

(3)常住戦死の心 谷口雅春

 宇宙には唯一つ、大御心のみがある。
 天皇の大御心である。『忠』とは、大御心に無我帰一する心である。すなはち天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の心に『中』(ちゅう)する心である『中』とは的に中(あた)るであり、生命の本質に貫き徹するのである。宇宙の実相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従ふのである。吾らが大御心を行ずるのは、それによって幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。さふ云う第二次第三次の事物よりも、尚尚すぐれて無常価値なるものが大御心である。その大御心を実現することは無常価値であるが故に、そのやうな第二次、第三次のお蔭などは心に微塵も止めないで、大御心を行ずるのが『忠』である。そしてそれがまた生長の家家族の心である。大御心を行ずる為に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。戦場に於(おい)て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。これを『死』と云ふ不吉な連想を伴ひ易き言葉を用ひず、『肉体なし、物質なし』と吾らは云ふ。その死に切った心だけでは消極的否定の心である。そこに『大御心のみあり』の大肯定がなければならぬ。生長の家ではこれを『神一元』と云ふ。天皇独在とも云ふのである。

(谷口雅春「常住戦死の心」『谷口雅春選集』潮文閣、1941年、2頁)

(4)ああ天地万物を見るたびに、吾々は、天皇陛下があがめられます。 天皇の下に生まれ 天皇の大みいのちに還りて死し死して永遠のいのちを得る。   
 天皇万歳である。…・万歳は久遠の象徴(しるし)である。…・・この際、この時、この生長の家の思想を広めて吾ら死なん。死なんかな。死なんかな。来りてともに死に給へ。死は大なる生につながる

(谷口雅春『明窓浄机』飛躍篇106頁 昭和16年 「天皇はすべてのすべてにまします」)

(5)「草でも一時刈ったり、牛にでも食われたりいたしますと、表面は一時なくなるけれども、それが適当に行なわれることによって次にその草はいっそう大きく生(の)びてくるのであります。…(省略)…樹木でも毎年剪定といって枝葉を適当に切らなければよいぐあいに元気よく育つことはできない。樹木はこれを切ってくれる人があるのでいっそう大きく元気に育ってゆくことができるのです。みんな生かし合いの世界なのです。……具体的にいえば、個体はなく、民族があり、国家がある――これは近頃ドイツで称えられる哲学ですが、これは生長の家の「本来肉体なし」の哲学によって初めてよくわかるのであります。個体というものが本来ないということがわかれば、一個の野菜も個体としては存在しないから、その個体が殺されて食べられるということもない。野菜は理念的存在であって、永遠不滅の野菜の理念が、常に殺されず滅せず、かえって生かされて明年はいっそう大きな優秀な顕われ方をする――すなわちいっそう大きく生かされることになるのであります。」

(谷口雅春著『生命の実相』39巻42-43頁)

● 軍備というものは自衛のためでもあるが、「国家の威厳」の象徴である。威厳なき国家は、韓国にも馬鹿にせられる。嘗(かつ)てソ連のブルガーニン首相はインドを訪問しての帰国にあたり声明して曰く、「ジュネーブ精神は失われたのではない。しかしわが国のみが一方的に軍備を縮小することはできない」と。この大国にして水爆を所有する国でさえ斯(か)くいうのであります。現代の人類の魂の発達の程度においては、世界の平和は勢力の均衡によって保障せられる。アメリカとソ連とは今は勢力が均衡しているから平和状態である。北鮮と韓国とは勢力が均衡しているから今は平和状態である。しかし、韓国と日本とは勢力が均衡していない故に竹島をとられ、日本海における漁業権を侵略されつつあるのである。
 勢力の均衡とは物質的表現であって、其の実質は国家の威厳であることに注意していただきたいのであります。

(谷口雅春『若人のための78章』昭和35年、日本教文社、183-184頁)

(6)大東亜戦争は東洋民族を解放する聖戦であった・谷口雅春
 谷口雅春は、昭和二十七年の『生長する青年』(現『生長の家青年会』機関誌)十月号に「霊の選士としての青年の使命」と題する御文章に、大東亜戦争の意義について次のように書いている。

「日本は大東亜民族の解放の旗幟(きし)をかかげて戦ったのである。そして日本は侵略国として色々の汚辱を蒙ったけれども、それは恰もキリストが十字架に釘(はりつけ)けられたのと同じことである。「人を救いてみずからを救い得ざる者よ」と当時のユダヤ人は十字架上のキリストを嘲笑したけれども、この汚辱ある刑罰の中に彼は全人類を解放したのである。それと同じく、日本は「侵略国」と云う汚名の下に侮辱され、戦争犯罪人と称して裁判にかけられ、上衣を奪われて十字架上にのぼったキリストのように領土の十分の四を奪われたけれども、その犠牲によって、東洋民族は自己の内部に、西欧民族と同様に尊ぶべき人権が、尊ぶべき「神性」が宿っていることを自覚することを得たのである。それまでは多くの東洋民族はみずからの無自覚によって自縄自縛していたために白色民族の支配下に土地はその植民地となり、人間は奴隷の如き生活を送っていたのである。日本の蹶起(けっき)のために多くの東洋民族は目覚めた。西洋民族と同じように彼らも神が平等に造った神の子であり、「何でも出来るぞ」という自覚を得たのだ。かくて東洋民族は続々として白色民族の桎梏から解放されて独立したのである。」

(7)天皇信仰 谷口雅春 (全文)
(以下は『生長の家五十年史』324頁~325頁 「天皇信仰」からの引用です。)
 
 谷口雅春先生は昭和十五年の『生命の教育』九月号の巻頭言に「天皇信仰」といふ生長の家の教義の根本である文章を発表された。これは宗教結社として届出された「教義の大要」を敷衍したものであった。なお、以下の文章を短く圧縮した文章が『天皇陛下を讃える』(日本教文社昭和52年刊)にも再掲されている。

《天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は、天皇より出でて天皇に帰るなり。天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの、天皇より流れ出て、天皇に帰るなり。わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと言ひて、『我』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。私なきが『忠』なり。
 天皇は、天照大御神と一体なり。天照大御神は、天之御中主神と一体なり。斯くして、天皇はすべての渾てにまします。『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して再び天之御中主神に復帰するなり。天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我』となるなり。
 全ての宗教は、天皇に帰一するための前提として存在の意義があるなり。すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、『無所有』を説くは、『この世は何も無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。すべてのものは、天皇の一元より発現することを教へたるなり。すべての森羅万象、天皇の大御いのちの顕現ならざるはなきなり。天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。
 わたくしの『生命』を愛護すること勿れ。『生命』が尊きは、天皇の大御いのちの流れであり、岐れであるが故に尊きなり。寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道の迷妄の徒となるなり。
 愈々日本も政治新体制の曙は近づけり。一切の政党は解党せり。新たに党を結ばんがための解党にては意味を成さず、この事肝に銘ずべきなり。挙国一党なりとも、党のある限りは、『無我』に非ざるなり。大みごころあるのみなり。大みごころへの無我随順あるのみなり。若し新党を樹つるとも、新政体を建つるとも一点の『我』ありて、大みごころを晦ますとき、天皇の御徳を遮して、自分の都合をはかる無道の徒となり了るなり。
 無道とは、道の無きことなり。道は宇宙にミチてあれども、『我』のあるところには、道は遮られてあらはれぬなり。大海原に海水は満ちたれども岩石の固まりたるところには海水は満ちをること能はざるが如きなり。『我』がなくなりて、はじめて『道』は生きるなり。私の『善』、私の『道』、私の『宗教』などと言ふものあるべからざることなり。
 すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。
各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる徒なり。すべてのもの、太陽にて生くるが如く、すべてのもの、天皇の大御いのちにて生くるなり。
 生長の家が、一宗一派を樹てざるは、宗派と言ひて党を樹て、閥に籠りて、相争ふことが『忠』に非ることを知る故なり。特に『一宗一派に非ず』と言ふことを教義の『七つの光明宣言』に記入して、宗教であることを許されしは、文部当局の賢明なる処置なり。文部当局が一宗一派にあらざる宗教をみとめたるなり。宗教が正しくなりたるなり。すべての宗教は私のものにあらざるなり。すべてを、天皇に帰一し、天皇に奉還し奉る宗教なり。
 宗はオホモトなり。天皇なり。すべての教も則も範も矩も規も法も、悉くスメラミコトより発するなり。宗教は宗派と言ふものに立ち籠りて、宗祖と言ふ一人の国民に過ぎざる人間を尊崇するは邪道なり。されば我は夙に喇叭に過ぎずと言ひたるなり。すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。宇宙の大教祖は、天皇にてあらせられるなり。ミチとノリとは悉く、スメラミコトより出づればなり。
 釈迦在世のとき、金波羅華を拈じて衆に示すに、迦葉のみ微笑す。金波羅華は『空』の象徴に非ず、宇宙がコスモスであり、中心帰一である象徴なり。日本国体の象徴也。迦葉のみ微笑す、とは悲しいかな。他の大弟子皆解せざる也。今の仏教者はいかほど金波羅華の秘密を解せりや。仏教を以て『空』を説くとなす者、百尺竿頭に坐する底の者なり。百尺竿頭に達せざる者よりは優れり。されど『空』の百尺竿頭より進一歩して、中心帰一世界を見ざるものは、外道の仏教にして、日本仏教にあらざるなり。
 東大寺の大仏は中心帰一の蓮華蔵世界を彫刻にあらはせるなり。中心座にましますは、光明遍照者(ヴェーローシャナ)にましまして、それを守護し奉るために、千葉(せんよう)の蓮華その御足の下にありて、各々の蓮華に、悉く釈迦牟尼仏ゐまして、光明遍照者(ヴェーローシャナ)の御徳を讚ふるなり。ヴェーローシャナと言ふ梵語をば、大日如来などと、仏教が如来の如く訳したるは誤謬にはあらざれども、人をして外国の仏様の如く誤解せしめたるや久し。
 ヴェーローシャナとは、単に『光明遍照』の意なり。宇宙の中心座に在す『光明遍照』なり。畏くも天照大御神にましますなり。天皇は天照大御神と一身にましますが故に、釈迦は、天皇信仰を教へたるなり。それを知らずして、迦葉のみ微笑す。善い哉。迦葉微笑せり。今は日本人悉くが微笑せざるべからざる時なり。天皇信仰を知らざるべからざる時なり。今はすべての宗教が天照大御神を礼拝すべき時なり。そのほかに宗教ある筈はなきなり。》

(8)谷口雅春の女性差別思想
★『いのちの革命』

●…・職業婦人タイプの女性は既に古き時代の婦人となったのである。それは商業主義、営利主義、資本主義時代の旧体制の女性である。新しい時代には新しい時代の女性が要求せられる。ヒットラーが、ドイツを再興せしむるために第一に女性に対して呼び掛けたところの叫びは「女性よ、職業戦線より帰って、家庭において、良き妻となり、良き母となれ」ということであった。

(『いのちの革命』谷口雅春、日本教文社、昭和41年、160頁)

● 女性は又、知的な労務に従えば従うほどその姙孕力(にんふりょく・※1)は減じて来る。教育なき長屋のカカアが子沢山であり、最高教育を受けた、何不自由なき富豪の娘が不妊で後嗣者(あとつぎ)がないなどの実例は実にたくさんあるのである。こういうことはなぜ起こるであろうか。多くの知的な労務は、男性の天分に属するがゆえに、女性が知的になればなるほど、心が男性化し、したがってその肉体も男性化し、女性生殖腺が発育不全となるのである。……・(途中省略)…・すなわち知的にあまり女性が進歩するときは、男性類似性肉体にまで進化して、女性生殖器に退行性萎縮的発育不全を起こすに至るのである。

(※1)妊娠する能力のこと

(『いのちの革命』谷口雅春、日本教文社、昭和41年、161-162頁)

★ 『日本を築くもの』

 およそ日本的なるものとは如何なるものであるかというと、中心に帰一するということ、陰陽が揃うて、陽が中心であり、陽が上にあるということであります。ご覧下さい。この湯呑(ゆのみ)には蓋があるでしょう。蓋と容れ物(いれもの)と二つ揃(そろ)っている。日本ではちゃんと蓋が上にあるのであります。日本の湯呑には、こうしてちゃんと蓋があるのに、西洋人の発明したところのコーヒー茶碗あるいは紅茶茶碗には蓋がない。受ける容れ物ばかりであります。受ける容れ物は女性であります。陰陽そろっていない。ただ女性のほうだけ、受身がある。女性は仰向(あおむ)いて入れてもらう器(うつわ)です。こうして蓋である男性をないがしろにして女性ばかりがのさばっているのがイザナミ文化なる西洋の理念であります。ところが日本では一々の茶碗でも、ちゃんと蓋つきの茶碗である。無論、安物の茶碗には蓋がない。人間でも安手の人間では女性ばかりのさばってカカア天下であります。上等の茶碗にはみな蓋がついています。コーヒー茶碗に蓋がついているのを見たことがない。イザナミ文化の女性ののさばる精神が食器にもあらわれているのであります。……・・(途中省略)…・・今や日本の女性は西洋の洋服を着て、日本の洋服はないけれども、西洋の洋服を着て、そして女のくせに、右襟(みぎえり)が左襟(ひだりえり)よりも前進した体裁の洋服を着ている。この右は女性を表わす。右は水極(みぎ)であって陰極を現す。左は〝陽足り(ひたり)〟であって男性である。西洋人の発明した女の洋服が右襟が左襟より進出しているのは、イザナミ文化の女性が、男性よりも先ず進出する象(かたち)をあらわしている。
 左よりも右が進出する文化の発達するときは天地の秩序が逆転しているから危機が近づいている証拠である。

(『日本を築くもの』日本教文社、昭和42年、谷口雅春選集第14巻21-23頁)


★『古事記と現代の預言』

●男性は左から「進む」のですが、女性は右から「退く」のです。その「進む」と「退く」とは野球のピッチャーとキャッチャーのような一対をなしているのです。男性はピッチャーみたいなものです。それで女性はキャッチャーのハタラキをして調和が得られるのです。
 男性のハタラキをするピッチャーは投手であってボールを積極的に投げ込むほうだ。それを素直にスーッと受けとる方が、これがキャッチャーで捕手の方だ。妻は夫から投げかけられた命令を素直にスーッと受け取らぬといかん。手を後退するようにして受け取らんといかんのです。手をつき出してボールをピシリと受けたら、ボールがカツッと手に衝突して、痛くって痛くって仕方がないということになるのであります。投手の投げたボールを素直に掌(てのひら)を後方に退けながら受け取ると、「投げる」と「受ける」とが一体になってまことに調和したゲームがいとなまれるのであります。女性は受け取る方で素直にスーッと退いて受けるがよいのであります。そしたら点数をかせぐことができる。女性は右で「右は退く」男性は左で、「左は進む」――左進右退、これが天地の法則になっているわけであります。

(『古事記と現代の預言』谷口雅春、74-75頁)

●「女性のイザナミは右であり、退くのが天分でありますから凹(おう)であります。男性のイザナギは前進ですから凸(とつ)であります。
 この凹凸が自然の天分のように運行したとき、そこに何らの衝突も起こらなくなりますが凹が天分に反して凸出(とっしゅつ)して行くならば衝突して夫婦喧嘩をするより仕方がないことになるわけで、矢張り女性は、その生殖器が示しているように、素直に夫の言うことを受け容れるとき、夫とピッタリと一つになり、女性としての喜びが感じられ、生き甲斐が感じられ、一家も繁盛することになるわけなんであります。…・・女性が女性の天分を失った生き方をすると子宮癌にかかることがあります。」

(『古事記と現代の預言』谷口雅春、76頁~77頁)

★『人生の秘訣365章』

●希望実現の第十則「夫唱婦和(ふしょうふわ)」

 子供が夫婦の間に生まれない場合には、夫唱婦和の原則がその家庭に行はれてゐないのが原因であることがある。希望実現の第十則は〝夫唱婦和〟の天地の法則に従ふことである。夫は〝天〟の位置にあり、妻は〝地〟の位に坐す。天は高くして地を覆い、地は低くして天を受け、天は陽徳を備へ地は陰徳を備へ、地は天の気を受けて排斥せずそれを内に孕むのである。陽は火徳(かとく)を備へて烈々として激しけれども、陰は水徳 を備へて柔かくしなやかに柔順の徳を備えているのが天地の道理なのである。妻が柔順の徳を失うとき、河の流れが旱魃にて水を失ひたるが如く、水田が乾いてヒビ割れたるが如く、そこに生命が棲むことが出来ないのである。
(『人生の秘訣365章』谷口雅春 日本教文社105頁)

★谷口雅春『住吉本宮建立の本義』~鎮護国家出龍宮顕斎殿と入龍宮幽斎殿との関連について~ 『生長の家五十年史』所収★(現代仮名遣いに直しました)
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 『古事記』の天地創造の神話が預言していることは何かと言うと、最初に発達するのは女性優先の世界であると言ふことです。伊邪那美神様がまづ声をかけて、そして子供が生れた。それが女性優先の世界、物質優先の世界です。
 大体、この陰陽を物質と霊とにわけますと霊のほうはすべてアイデアをもって色々のものを創作し、計画し、それを実行するように推進めてゆく積極性を持っている、陽性であります。男性はまさにそういう天分を持っているのです。
 物質のほうは、自ら、あるアイデアを思い浮べることもなければ、計画を推進めることもない
わけです。それで男性の計画したその計画通りにその家を治めて行く、というのが大八嶋国の、日本国の道徳的基準ということになっているわけなのである。これを世界的に解釈すると、アメリカ式の西洋文明というものは、女性優先、言換えると物質優先の文明であります。それで、世界の文化を西洋文化と東洋文化にわけると、東洋文化というのは、たくさんにわかれていてもみんな一つであるという、そういふ根本的な生命観がある、それが宗教です。宗教といふものは、人種を超え、国家を超え、民族を超えてどんなにそれがわかれておっても一つの神様の生命によって互いに兄弟であるという、そういう考えを持っている。
 東洋に発達した文化というものは宗教文化であって、佛教は無論のこと、儒教にしても、道教にしても、日本の神道にしても、すべて霊的なものは、霊には境がないから、みな一つであるという、互いに仲良くなる原理を持っている。
 ところが西洋文明というのは、分割して支配せよ、という根本法則によって成立っているわけなのであります。それで、西洋文明、物質文明というのは、物資を細かく割って分子とし、分子を細かく割って原子として、原子をもう一つ細かく割って原子爆弾にして、それで宇宙の一切のものを粉砕して死の世界にまで追い込んでしまう。これが物質文明の最後の土壇場である。今や、西洋文明の、物質文明の最後のギリギリのところで、ただ、力のバランスによって核戦争が起こらないという危機一髪のところにまで来ている。もし、ソ連のほうがアメリカより軍事的にはっきり優勢であるとわかったらいつソ連はアメリカに対して攻撃をしかけるかもしれない。そうなれば、今の人類の三倍か五倍も死んでしまって、それでもなお、核兵器が余るという。これが物質文明の成れの果なのです。
 『古事記』では、伊邪那美神様は黄泉(ヨモツ)大神という名で呼ばれているのであります。黄泉国とは冥土の国のことです。その黄泉国、冥土の国の大神が、伊邪那美神様になっている。つまり物質文明は、結局、死の国につながる文明であると言うことが、預言的に、神話的に書かれている。それで伊邪那岐(イザナギ)神様と心の波長が合わないで、しばらく会わないでおられた。ところが、霊の神様である伊邪那岐神様が、妻である伊邪那美神様にしばらく会わなかったからというので、黄泉国へ入って行って伊邪那美神様を訪問しておいでになりました。
 そして、お入りになって声をかけられた。伊邪那美神様は姿を現わされないで「ただ今、見苦しい姿をしておりますから、しばらくお待ち下さいませ」とこう言いました。それで、しばらく待っていたけれども出て来ない。待ち遠しく思って自分で奥の方へ入って行かれました。そして、揚戸(あげど)をあけて、櫛の歯に燈をともして、つまり、奇魂(くしみたま)の智慧をもって、伊邪那美神様の御姿をご覧になったのであります。すると、その美しい伊邪那美神様の裸の姿が仰向けに寝ておられるはずなのですけれども、その伊邪那美神様の身体中に蛆がたかっているのです。『古事記』にはそれがこのように書かれてある。「宇士(うじ)たかれとろろぎて、頭(みかしら)には大雷(おおいかづち)居り胸には火雷(ほのいかづち)居り腹(みはら)には黒雷(くろいかづち)居り、陰(みほと)には拆雷(さくいかづち)居り…・」雷というのは、爆弾が炸裂するそのシンボルに使ってあるのであります。物質文明の最後の極点の人類絶滅の戦いの象徴として、死の国の大神として伊邪那美神様が寝ておられるのです。
 その姿をご覧になった伊邪那岐神様は、こんな穢(きたな)い伊邪那美神に私は惹きつけられておったのか、私の心は汚れた。そして、「吾(あ)は、いなしこめしこめき穢き国に至りて在りけり。故(か)れ吾(あ)は御身(おほみま)の禊(はらひ)せな」と仰せられた。御身体の禊祓(みそぎはらい)をしなければならないと仰せられた。そして、竺紫日向橘小門之阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはら)というところで禊祓をせられたのであります。そうすると汚い色々の神様が出て来られて、最後に宇宙浄化のしめくくりに、住吉大神がお出ましになったのであります。
 伊邪那岐神様というのは、宇宙を如何なる相(すがた)に創造るかというアイデアの本源の神様です。伊邪那美神様は、そのアイデアに従って、物質的な相を、西洋文明として現す、その役目をしておられる。ですから、宇宙の本当の創造主(つくりぬし)というのは、伊邪那岐神様です。伊邪那岐神様が禊祓するというのは、宇宙全体の大浄化作用が行われるということを意味しているのであります。その宇宙浄化の最後の浄めをなす神様が、住吉大神なのであります。

(9)谷口雅春の外国人差別思想

●「白血病にかかった暁雄(あけお)ちゃんに血液全量の交換輸血を行って、いくらかでも寿命を延ばしてみようとする日赤中央病院の未曾有の実験は、結局不結果に終って入院以来一ヶ月半で鼻血の出血甚だしく病勢悪化してついに死亡してしまったのである。それは結果から考えれば、医学の失敗というよりも暁雄ちゃんの霊魂が高級霊であって、地上の寿命がすでに卒業時期に来ていたのだと考えられるのは、死期が近づくと、六歳の幼さでありながら、側らにいる人々に別離のお礼を言って昇天したのでも知ることが出来るのである。フランスで高所から墜落して腎臓をメチャメチャに打撲した少年が、生憎一個しかない腎臓だったので、母親の一方の腎臓を摘出してその少年に移植した手術も全世界の注目を浴びていたがこれも間もなく死んでしまった。専門家の説を聞くと、人間には特異な個性維持の本能があって、内臓を移植しても、その内臓それ自身が別個体の継続として単独に生きている間は本人の臓器の代用をして暫く生きているけれども、やがて生体の個性維持の本能が他人から移植した臓器や、あまりに大量の他人の血液の輸入などは、それを同化して、自分の個性ある個体に吸収するには大量すぎるので、異物排除の働きでそれを排除しようとする働きが起るので、やがて移植した臓器も死に、輸血した他人の血液も排除されて益々出血が多量となり死んでしまうのである。これは個体生命の生理作用のことであるが、民族生命の生理作用ともいうべきものにもこれと同じことがあるのである。一個の民族は、それに輸血するが如く色々の民族を其処に混入し、色々の思想を混入しても、その民族が民族として生きるに耐える健康を保っている限りにおいて、それを同化して、本来の民族性に還元するのである。フランス人の中に他の民族を移住させてもやはりフランス人的精神のものになってフランス民族精神の純粋さに還元しようとするのである。ついに同化し得ない状態に達する時は、異物排除の生命作用が起り其処に闘争や混乱が起る。日本の現状は日本精神の純粋に還元しようとする働き(いわゆる復古調とか逆コースとか)と、同化しようとする働きと、同化し得ない外来思想を排除せんとする働きとが混同して大混乱が民族の生理作用に起りつつある有様である。異物の方が大量になってしまえば、日本の民族性は大量輸血の暁雄(あけお)ちゃんのように死滅するほかはないのである。逆コースだなどと言って日本民族精神の純粋に還元しようとする働きを軽蔑することなく、その純粋の復元への働きこそ日本民族の純粋性の死活の問題なのであって、青年諸君が、もっと真面目に日本民族精神の護持に懸命になられんことを望むのである。」

(『若人のための78章』谷口雅春著・昭和35年7月5日・日本教文社発行、125~127頁 「第46章 日本民族の交換輸血の反応」より転載)

(10)皇軍の倫理 谷口雅春.pdf←クリックして下さい


『日本会議の研究』の著者・菅野完氏も「谷口雅春の極右思想に心酔する民族派」だった!!
http://shinjiro7.hatenablog.com/entry/2016/07/31/000000

posted by 衆議院議員・稲田朋美氏の国家観・政治思想 at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする
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